2010年8月22日日曜日

まんまのまんまを見据える勇気

ちょっとお年を召してから。
Siwami VishnudevanandaとSwami Chidananda。


「 あなたは今、10代。覚えておいてください、何歳であろうと、どのような状況の中にいようと、あなたは神の神聖な子供であるということを。ですからどんな時も、思い、言葉、行動において神聖であってください。強くあってください。真実に対して勇敢であってください。あなた自身であることに、ゆるぎない勇気を持っていてください。」


 前にもここで引用しましたけど、Swami Chidananda ji から若者へのメッセージ。私が10代ではないことは、賢明な読者の方々は既にお気づきのことと思いますが(・・・というか当然だろ!)、孤独な闘い(内なる闘いとは常に孤独なものなのでR・・・)に負けそうなとき、いつもいつも勇気をくれる言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、今日は、センターの夜のサットサンガで、Swami Sivananda グルデヴと生徒のQ&Aを記録した本から「the idea of getting Eternal Bliss is not self-hypnosis 」という一文を読みました。「ここんとこ読もう!」と思って持参した本です。「永遠の至福を得るということは、一種の自己催眠ですか?」という生徒の質問に「断じて、まったく、さっぱり違います!」とグルデヴが答えるんですけど、グルデヴご存命の時のサットサンガでは、実際にこういう質疑応答がなされたんですね~。


 「永遠の歓び」とは、「未来に約束された幸福」のことでは無い。そんなのは「未来に起こるかも知れない不幸に対する怖れ」と表裏一体だから。「永遠の歓び」とは、「時間という概念にも、空間という概念にも、一切制限されない、揺るがない心の平安としての歓び」のことですよね。モークシャってことです。これを限られた時間で、ライブで説明するのがまだ私には難しい。



 それで(遠まわしながら)コップの水が・・・という例のポジティブシンキングの話を添えたのですが、「コップに水が半分もある~、って思える私ってキラッキラ輝いちゃってまーす。今日も超ハッピー!」という無理矢理な自己催眠的多幸感とも違うんじゃないかな~ってことが、言いたかったんですよね、今日の私は・・・。


コップの水の量くらいなら、まだいい。
井戸水に毒が検出されて

「井戸に毒が入っちゃった~。でも5%しか入って無いしラッキーよ!
今日も超ハッピー!ありがたく頂きます、ゴクゴクゴク。」


というは訳には行きますまい。あまりにも現実を無視しすぎ。
かといって


「きゃー!井戸に毒が5%も入った!もう終わりだ、絶望的だ!」

と悲惨な自分に巻き込まれていく必要もない。
「毒など入っておらん!断じて入っとらん!」
と言い張っちゃうのも・・・・・・無しだな~。

「毒が入っちゃったら飲まない。」

というだけの話なのよね。でも、人間とは、闇雲に両極端に走りたがる生き物のようですね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聖者が、ガンジス川の流れに、絶え間ない意識の流れを見る話。


 Swami Vishnudevananda ji のこんなエピソードがあります。出家したばかりの頃、「ったく川に祈りなんか捧げて馬鹿馬鹿しい。水なんて単なる物質、H2Oだろ?」と思っていたがガンジス川が、ある瞬間(グルであるSwami Sivananda の導きによって)、絶え間ないコンシャスネスの流れというリアリティに取って変わった・・・と。居丈高だった若者には驚きでしたでしょう。まさに世界がガラリと変わった瞬間だったと思います。・・・・が、スワミジが「ああっ!川が流れてる~!あれは絶え間ないコンシャスネス、至福の流れ!僕はキラッキラ~!超ハッピー!」という風になったとは、私には、どうしても思えないんですよね~。証明する手立てはないんですけど・・・。


 ましてや、「これは水では無ーい、大いなる意識である。全てマヤの作りだした幻想だ!だから飛び込んでも死ななーい!ドボーン!」・・・なんてこと、無い、無い!証明する必要すら無い。スワミジはちゃんとH2Oも見てますよ。でも同時に、その背後にある真実も見ているということです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私たちも、しっかり目を開いて、ちゃんとH2Oを、リアリティーを捉えていかなくてはいけないですよね。ココではないドコカに自分を探すのではなく、ドコにいても在る自分という真実を知るために。


「私は悲しくなんてない!」
悲しみという水を見ないで洪水になるまで放っておくか?


「悲しい!悲しい!悲しい!」と悲しみの海に溺れ死ぬか?


「誰も悪くない!」と堤防の決壊を待つか?


「あいつが悪い!」と憎しみに振り回されるか?




 悲しみは悲しみ、間違いは間違い。そのままにそこに在るもの。無理な好感や、ましてや罪悪感など加える必要はない。それそのまんまを、見つめられますか?・・・と。冒頭に書いたChidanandaji の「真実に対して勇敢であって下さい。あなた自身であることに、揺るぎない勇気を持って下さい。」とは、そういうことです。そして、いつか、成長し、感情や状況のさざ波の向こうに、揺るがない何かを見ることが出来るなら、永遠の歓びの中にとどまれるんでしょうね。
.
 「それそのまんま」、ただそれだけのことなんだけど、なかなかどうして説明は難しいね。いつかもっとスマートに説明できるようになれるかな・・・?




ガンガーとグルデヴと若き日のSwami Vishunu。