2010年9月27日月曜日

みんなのQとしーたのA <福岡編>

 ワークショップやら引っ越しやらで、すっかりご無沙汰しました。立て続けにブログを更新していくことになりそうですが、そこんとこヨロシク(永吉風)。福岡でのWSから帰ってきましたよ。良いところだった~福岡。暮らし易いというんでしょうか、大都会なのに自然が身近。衣食住全てがセンス良く味良く、お手頃価格。必要な(良質なもの)が身近に手に入り、小回りが利く。住みたい町候補にトップ3に躍り出ましたね~。それから麺がうまい!この豪華野菜天ぶっかけうどん、なんと650円ですよ。Kumari先生御用達の和助



 9月25日のワークショップは、そんな素敵シティ福岡から、さらに山口県や宮崎県からもお越し下さった皆さんと、アットホームかつ、真剣、マニアックな会となりました。TTCの時に伝えるような小難しい話に、居眠りもせずノートをとりながら耳を傾けて下さって、感謝しています。講義はアンタッカラナについてでしたが、それとは別に、皆さんの素朴な疑問に関するオシャベリも楽しい時間でした。というわけで久々に「みんなのQ」、いってみよ~!すごく長いので、お勉強の好きな方は、読んでみてください。



Q. ①時代とともに科学も栄養学も発達しました。何千年も前のヨガ菜食が現代人に沿うとは限らないのでは?②ヨガで欲望を全部なくしたら、子供が出来なくなって、人類が滅んでしまうのでは?

A.ふたつの疑問をからめてお答えしますが、ヨガは万人にとって有効な知識であり、また万人にとって有効な知識をまたヨガと呼びますが、全ての人が同じ道を選ぶということではないんです。インドでは四つのアーシュラマというのがあります。四住期って聞いたことありません?それです。


 学生期(brahmacarya) - 先生のもとでヴェーダを学ぶ時期
 家住期(gārhasthya) - 家庭で子をもうけ一家の祭式を主宰する
 林棲期(vānaprastha) - 森林に隠棲して修行する時期
 遊行期(samnyāsa)-一定の住所をもたず乞食遊行する時期


 生まれてから年をとって死ぬまでに、この段階を経ていきます。家住期に子供を育て、林棲期とはいわゆる御隠居ですよね。でも、若くしてスキップして第三・四期に突入しちゃう人も稀にいる。なぜか?この人生でやらなきゃいけないこと、として与えられた課題が、人それぞれに違う、からです。その各々の課題をスヴァダルマといいます。スヴァダルマからは、誰も逃れることは出来ません。TTC卒の方は思いだして下さい。GITAに書かれています。

 同じように、インドの暮らしには、四つのヴァルナといわれる階級があります。これがを西洋の合理主義的視点で捉えられ、カーストと呼ばれるようになるのですが、ここでいうヴァルナというのはカーストの言葉から連想するような「強いものが利益を独占するために制定した階級差別」ではありません。


 ブラフミン=神聖な職に就いたり、儀式を行う。
 クシャトリヤ=王族など武力や政治力を持つ。
 ヴァイシャ=商業や製造業などに就く。
 シュードラ=下働きなどの仕事に就く。


 この辺は皆さん聞いたことあるかと思います。どの階級に生まれるか、それはスヴァダルマです。子供を持つ前に出家してしまうのもスヴァダルマ。さらに人間には段階的な四つの欲求というか人生目標があります。


 アルタ=安全や安心を得る。
 カーマ=喜びや楽しみを得る。
 ダルマ=秩序を得る。
 モークシャ=解脱。


 ボロボロの衣キレをまとった私を想像して下さい。飢えて住む家もない。そんなSitaが最初に欲しいのは空腹を満たす少しの飯と、寒さを凌げる屋根と衣服(アルタ)。それらが安定的に確保されると「味のヴァリエーションとしてふりかけが欲しいな、美味しいと噂の店に行ってみたいな」「もっと着心地の良い服が欲しいな」(カーマ)、欲望を満たし楽しい暮らしなのに、何かが足りない。宇宙の規律と調和して暮らすことを、生きる指針にしたいな(ダルマ)。飢え死にそうな時に、「永谷園のおとなのふりかけ、焼鮭味が無いなら食えん」とか言う人はいないでしょ?やっぱり段階的なんですね。


 それでも尚、何かが足りない、私は私自身の正体を知りたい!ダルマ以前の全ての欲求が、who I am を追及したい欲望に吸収されたとき、我々はヨーガを生きる人になります。ここら辺は皆さんご存じでしょう。そして実はヴァイシャとは


ブラフミン(モークシャを追及する。)
クシャトリヤ(アルタ、カーマを得、ダルマを守ることで、ブラフミンの追及活動をサポートする)
ヴァイシャ(アルタ・カーマを得、他にもそれらを供給することで、クシャトリヤとブラフミンの活動をサポートする。)
シュードラ(ヴァイシャ、クシャトリヤ、ブラフミンの活動をサポートする。)

 これはつまり、ピラミッド型押し上げ式のモークシャサポートシステム社会。何度も生まれて、その都度スヴァダルマを一生懸命まっとうして、次に生れる時には進級して、いつかはモークシャを得る。それを社会全体で支えるのがインドの社会構造なのですね~。かなり気の長い話なので、西洋的合理主義的見地からはちょっと理解しがたいと思います。


 ようやく結論なんですが、アルタ・カーマを満たし、感覚や肉体を喜ばせる為の食事ということでしたら、時代とともに変遷していくでしょう。しかし、ヨガで説く菜食=モークシャの為の食事です。時代を経て価値が変わるというものでもありません。主にブラフミンの方々が菜食を厳格に守っていますが、四つのヴァルナのように、色々な役割の人がいて支えてこそ、社会全体が成り立っているのです。


 出家僧には出家僧の、ママにはママの、弁護士さんには弁護士さんのスヴァダルマがある。みんなが同時に欲望を放棄すると仮定したら、ご質問の通り、人類は滅びるかも。でも、考えてみて?全人類が同時に小学校を卒業するなんてことは、ありえない。小学校を6年かけて卒業するみたいに順繰りに、先輩を送りだし、自分もまた時間をかけて卒業していくんですね。後輩は先輩を応援し、先輩は後輩に道を示す。その連鎖。多くの他者の助けがあってこそ、ということを忘れてはいけませんね。常に全体を見て感謝したい。

 欲望を落とすというのは、段階を経て、いろいろな次元において欲望の対象が変わっていくということです。それを成長と呼ぶ。いつかはモークシャへの欲望が1stプライオリティーに躍り出るのかも知れません。


最後に福岡のスーパーマーケットからのメッセージをば。
旬命!さんきゅーっ!