2014年6月16日月曜日

本のこと

またサボり癖が出ました(笑)。

坦々とやっていかなくてはいけませんね。つくづく。


先日、たまももさんと中華街でお茶した時に「若者と日本語が通じない」という話でかるく盛り上がりました。

「村八分は通じないのよ〜、今は。」
「私は通じるよ、ってことは私はオバさんか!やぶさかでないも通じなかったよ。」

・・・などなど。


村八分・・・表立って使うのが憚られるの言葉だから消えてしまったのかもしれない・・・なとどと憶測しつつ・・・(村八分といえば山口富士夫、懐かしいっすね)・・・どうも40歳位のラインが時代的にボーダーらしい。


私は昔から本が好きで、今も好き。必ず奥付(この言葉は通じてるだろうか)まで目を通します。あとがきも好き。あるいは、出版社の社長による刊行の辞とか。


たとえば

(前略)
われわれは戦後に十五年の出版文化のありかたへの深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求める事無く、長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか、今後の出版文化の繁栄はあり得ないと信じるからである。

同時にわれわれはこの総合文庫の刊行を通じて、人文・社会・自然の諸科学が、結局人間の学にほかならないことを立証しようと願っている。かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。現代社会の瑣末な情報の氾濫のなかから、力強い知識の源泉を掘り起こし、技術文明のただなかに、生きた人間の姿を復活させること。それこそがわれわれの希求である。

われわれは権威に盲従せず、俗流に媚びることなく渾然一体となって日本の「草の根」をかたちづくる若く新しい世代の人々に、心を込めてこの新しい綜合文庫をおくり届けたい。

(後略)

1971年7月 野間省一


これは、講談社文庫の刊行の辞。

かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。

ヴェーダーンタですねえ。


あと村上春樹のあとがきとか。


(前略)
しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは域をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、あなたは同時に客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である、あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうし重層的な物語性を持つ事によって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。

20日の頃に読んだ「ノルウェイの森」に、うへえ〜っと辟易して以来、村上春樹作品は嫌いだったんだけど、以降の作品とかあとがきを読んでると、最近すごく肩入れしたくなってきて、やっぱり素晴らしい作家ではないか、と心変わりしました(笑)。

「ノルウェイの森」の放つ、若さ故の青い苦悩感に対する近親憎悪だったのでしょう。私も青い苦悩でしたから(笑)、読んだときどうしようもなく恥ずかしい感じがした。神戸の事件の、さかきばらせいと君の犯行声明もそうでしたね。さすがに中学生とは思わなかったけど10代であることは確信しました。だって、読んでとても恥ずかしい感じがした。




あ、上記の「アンダーグラウンド」も講談社文庫だった。




さて、中学生になってすぐ、現代国語の先生が最初の授業で言っていたことを今でも覚えてる。

「文学というのはフィクションです。でもそのフィクションを通じて「真理」を顕そうとするチャレンジです。」

私はすぐに転校してしまったので、名前は覚えていないけれど、黒々とした髪の毛の量が多い先生でした。


村上といえば村上龍の「テニスボーイの憂鬱」なんかも、ちょいエロ軽薄小説にみえてすごく大事な事を語っていますね。




文学大好きです。