2016年6月15日水曜日

雨の日のシータマ書店 ヴェーダーンタ篇




梅雨ですね。
うーん、けっこう嫌いじゃない、かもしれない。

中学校一年生のときの国語の先生が言っていた。
文学とは真実を伝えるものであると。
フィクションだけど真実を伝える。

ファクトではなくて、フィクションだからこそ、真実にフォーカスすることができる のかもしれない。もちろん読み手がそこにフォーカスしてくれるかどうかは別問題ではあるのだけれど。作者が投げてくる真実を拾うと感動する。


それでは勉強会のみなさま。いつも私がクドクドお話していることを、文筆家の美しい文章で見てみましょう。


ヴェーダーンタのテキストでは、真実を明確にするために、真実でないもの、世界とは何かが細かく解かれていますよね。世界とは何かということが。それからもちろん私とは、真実とは何かということ。

そういったことが、美しい文章で表されているから、小説好き。



たとえば、よしもとばななの「スウィートヒアアフター」。
 
 そうだ、交換してるんだ、お互いに。

 私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなかった。世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。

 こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ。
 目に見えない世界で確かにそれは起こっていることで、見る目を変えればいつでもその影響を見ることができるのだと、私ははっきり知って戻ってきた。


主人公が、真実でないもの(世界つまり客体)を語ってるんだけど、実に美しくジャガット(世界)と、その法則性であるカルマというものを含めて捉えてますね。


それを客体化できているということは、裏を返すと、語り手は、真実(私つまり主体)をある程度つかんでいるということです。九死に一生を得、ニッテャーニッテャヴァストゥヴィヴェーカした人のお話でした。

「私」の本質は死なないことを知る人は、恐れを超えます。

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お次。

田口ランディの「キュア」。これはガンを得て、多くのことに気付いていく人の話。


人間てなんだろう。いろんな微生物やウィルスと共生している。一つの生命じゃない、無数の生命の共生体だ。自我だけが、勝手に自分を一人だと思っている。バカだな自我って。愚かだ。

そうなんです。バカなんです自我。だってそもそも自我も客体だから。ものです。追ってクラスで詳しくお話しましょう。

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以下、二つの生命の対話。


じゃあ、なぜ人間は意識をもったんだろう?人間だけが・・・

理由はない。それも因果による必然。意識もまた反応の一部だわ。



「意識」って言葉は守備範囲が広いので、区別するために、「認識」とか「思考」に置き換えてください。「認識」や「思考」は「私」の本質ではなく、反応であり、ジャガットの一側面です。

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どうしたらこの意識から抜け出せる?

思い出して、海で生きていたころのことを。魚だったとき、あなたは水を意識できたかしら。水のなかで生きている魚が水について認識できるかしら。魚が溺れることがあるかしら。


もがかないことよ。もがくと溺れる。あなたはもともと泳げる魚なの。

だからそのままでいいのよ・・・・。


私の本質をあらわす美しい比喩だよね。

ここでも、各箇所で別のことを意味する「意識」という言葉が複数でてきますので、冒頭の「この意識」を自我や思考を私と勘違いする「誤った自己認識」に置き換えます。もがくことは混乱した知性ですよね。

ヨーガは、自己についての正しい知識がやどる綺麗な体と心と知性をつくる道のことです。もともとの私を思い出すために。


あなたはもともと泳げる魚なの。
だからそのままでいいのよ。

これがヴェータンタの答え。

詳しくはまたクラスで!

追伸:妙なところばかり勝手に切りとって紹介しましたけど、小説として普通に面白い本です。読んでみて。