2017年8月30日水曜日

熱いぜ、湘南!(横須賀編)

もうすぐ9月。

8月は関東の中でも夏が似合いそうな所に連日お邪魔してきました。この二日間の生徒さんとの接触はですね、非常に大事なことを再認識させてくれましたね。実に深い意味で。


横須賀では、みんなの「ヨーガライフプランニング」というタイトルで、願望を、文字として書き出す=言葉にすることで、頭の中の整理を試みたのですが、思いのほか、沢山の方が集まって下さり、時間の関係で我ながらちょっと詰めが甘かったので、補足も含めて振り返ります。


さて、当日。

これから小難しい話をするってことがバレないよう、こんなイラストを用意していきました。ふっ・・・。「あ、今日は塗り絵か〜!」とみなを油断させる・・・もとい頭の拒否反応が起こらないよう、脳みそ騙し騙し作戦。



最初に「自分ではないもの」について説明した上で、

願望(③)を書き出していただいた。
次に、何故そう思うのか(②)を、遡って書いていただいた 。
更に、願望を実現する為に、具体的にどんな行動を取ろうか(④)、書いていただいた。

ここで詰めが甘かった点を告白すると、

何故そう思うのかの、そのまた何故そう思うのか(①)を書いてもらう時間がなくなっちゃったことですね。だいぶ駆け足になっちゃった(笑)。駆け足すぎて、皆さんの腑に落ちなかったことと思います。すみませんでした。


①から④まで番号をふってあるんですけど、実は数が大きくなるほど、具体性が強まるんですね。 逆に数が小さくなるほど、属性が減るというか抽象度が増します。

④から①に遡るにつれ、本質に近づいていく、という、そんなチャートだったんです。

だから、ライフプランニングと謳っておきながら、実は④をすれば③が叶うよ、って話ではなくて、③を望むその理由に還って行ってもらいたかったの。

で最後、全てのラインが、一箇所(図の中では女の子の手の中)に集約されるんですけど、その源とは、つまり「私」であり「しあわせ(Ananda)」なんですね。

ということでそういうチャートでした(笑)。

いろんな願望が出てきましたね。

横須賀では

・感情をコントロールしたい。
・イライラするのが嫌だから、心を平静に保ちたい。


といった願望が多かったです。
確かに、心が平静だったら、しあわせを感じやすいでしょうね。

面白かったのは、

・ヨーガをもっと知りたい、死ぬまで勉強したいと、なぜか感じる。
・ようやく長年の子育てを終えて、今、自分のことを知りたいと思う。

これには私も「へえ〜!」と思いましたね。

ヴェーダーンタにおいて、自己の本質は、Sat Cit Ananda という言葉で表されることがあるのですが、本当にCit なんだな〜っ!だからJnana Saktiなんだなあ〜って、感動しました。


そして、

詰めの甘かった点がもう一つ。

あのことをもっとハッキリ伝えておくべきだった。

この授業での私の目的は、感覚的ではない、本質的な幸福感への思考の道筋をつけることだったのですが、横道である落とし穴について、説明が不十分でした。

それは「幸福」と「優越感」は似て非なる別物であるということです。

現代社会の病巣の一つは、まさに、これらの取り違えでしょうね。

優越意識とは、すなわち劣等意識と裏表の関係にあるものです。

「私は、これこれを、こういう風にしたい!」

と思う時、その動機がどこまでいっても「理由ったってわかんないよ」「今、出来ていないからだよ」の堂々巡りの場合、優越感をしあわせだと勘違いしていることを疑ってみます。 それは劣等感の表れであり、劣等感とは「他人との比較、すなわち相対性の中に生きている」ということ。

自らのしあわせが、自らによって明らかである境地のことをヨーガというのです。

しあわせとは、相対的な価値ではない、つまり他人によって証明されるものではありません。

ましては「いいね!」の数とかでは計れませんよ。人間て斯くも無知なものなのです。



例えば、自分以外を理由としてもいいんですよ。

「これが出来たら夫が喜ぶから」でもいいんです。

ただし、更に遡って「なぜかわからないけど夫が喜んだら、私しあわせだから」に、ちゃんと着地すべきなんですよね。

「しあわせ」と「優越感」のすり替わりが起こっている場合には、まずその部分をハッキリさせておく必要があります。その為には、まず他人ばかり見ない。自分をちゃんと見る。ていうか、自分だけをちゃんと見る。そこに優も劣も無いことを理解するまで、ちゃんと。

言うは易しってやつか・・・・でも、きっと出来ます。

女を生きるんでもない。
男を生きるんでもない。
役職を生きるんでもない。
続柄を生きるんでもない。
容姿を生きるんでもない。

私を生きるんです。


今日は、ちょっと、難しい言葉を連ねてしまいましたが、横須賀のワークショップの主旨って、そういうことでした!

また、どこかで、このお話が出来たらいいね。

このあと鎌倉編が続きます!

ばいちゃ!
















2017年8月27日日曜日

共感するお言葉シリーズ ①



今や、田中泯さんという舞踏家をご存知の方は、沢山いらっしゃるのではないでしょうか。

泯さんがお弟子さん達と共に活動する場所(身体気象農場といいました)に、親友が昔入門していまして、蚊取り線香届けついでに、私も少しの間、滞在してお手伝いさせていただいたことがあります。その時に描いた公演の看板が「私は土から生まれた」という演目だったので年表調べてみたら、1996年のことだということが、判明。20世紀だったか・・・。

その田中泯さんが、阿川佐和子さんとテレビで対談していたので、すかさずネットでチェックしましたよ。あれ、泯さんて、こんな方だったっけ?この熟味というか、まろみというか、うーん、20年の月日が経ったんだなあ。


面白い30分でした。いろいろとツボなお言葉あったのだけれども、

「それは喜びですか、悲しみですか?」という問いに対する返答に共感。

「どっちとも言えないですね。僕は、あんまり、歓びとか悲しみとか怒りとか何とかとか、言葉のレベルをビシッと決めたくないんです。嬉しいことと悲しいことの間には、ず~っと、あるじゃないですか。」


いやー、まさに今年、私はこのことを思っていた。

泯さんは、あまりトークが得意なタイプではないんだろうな、という感じがするんだけど、でも、やけにシミジミと伝わりました。

グラデーションなんだよね。

それでさ、子供の時って感情に名前つけなかった。
こういうグラデーション全体の中で生きてたな・・・・って。

カテゴライズを覚えて、やがてカテゴライズ無しに生きるのが不安になるのは、一体ぜんたい何歳からなんだろうね。

「例えば文字文化を持たない人達の踊りはすごい。文字を持ってからの踊りって、どこかで文字の翻訳みたいになっていく。」というようなことを仰っているんだけど、ほんとにそうだよね。

言葉は、考えを整理する為の素晴らしい道具であると同時に、本来無限であるはずの世界を制限する枷にもなるんだ。

花に、星に、思いに、名前を付けるってことは、そういうことだ。

ミイラ取りがミイラ。捉われるよね。



それからカッコよかったのがお金の話。


ダンスビジネスに関係するパフォーマンスは全体の一割みたいな話の時。

阿「でも生活はありますでしょ?」

「死ぬわけじゃないから~(笑)。正直言って金より俺のが偉いです。」

スタッフから笑い声

阿「失礼しました(笑)。」

いや、まじでそうでしょ。

私も思ってるさ。金より私のが偉いです。


聞き手の阿川佐和子も、うまいね。


・・・てことで、共感シリーズ②に続く。

またね



2017年8月9日水曜日

ジーザス・クニヒコ・スーパースター


ジーザス・クライスト・スーパースターを知っておるかな?
70年代のいかしたロックミュージカルじゃ。
ニューヨークのブロードウェイで公演された。

そんなジーザス・クライスト・スーパースターがこの夏、四万十川から唐突に湧いて出たからシータ万蔵はたまげたぞ。


あれ、よく見たらジーザス・クニヒコ・スーパースターだった!


なーんて(笑)。
すみません。高知県四万十市 Natural Life Yoga のKuniさんの華麗なるジャンプでした!

昨年、密かに行ったリトリートを、今年は密かではなく開催してみたのです。

三日間、くにさんと私、そしてカフェTaneのちかちゃんがホストとなり、アーサナして、クリヤーもして、瞑想して、キールタンやって、ヴィーガン料理食べて、海へ山へと繰り出す、0代(というの?)から40代まで、個性豊かなメンバーが集まった「大人の夏休み」でした。

三日間、家族のように共に過ごしましたね。本当に楽しかった。



何気ないおしゃべりのなかで、ジーザス、もといクニさんが言ってた言葉。

「遊びがなかったら、いい仕事は出来ませんよ」

結構、深いお言葉。

決して「酒と浮気」についての男の言い訳みたいな話ではありませんよ。


ブラック企業とか、新たな過労死が問題視されてるご時世。

働き方、働くことの楽しさ、働くことの意味・・・いろんなことが分かり難くて、果ては、生き方、生きることの楽しさ、生きることの意味が分からなくなってしまう。

時間を忘れるくらい、いい遊びが出来たときは、生きる喜びを思い出すよね。

私の好きな言葉は「天真爛漫」。
生まれつきの素直な心が、そのままに輝き顕れることです。

以前は、私の趣味を多分に反映した「修行」系の、きつくて長〜いリトリートをやったりしてたんだけど、ほどなくして考えを改めたんですよね。今、多くの人に必要なことは、自己を律して知識を詰め込む以前に、本当の自分、天真爛漫を取り戻すことなのではないか、と。

そんなわけでタイのリトリートも少し趣向を変えましたし、今回の四万十企画もその流れです。




ジーザスと私、シンクロ選手風に入場。

地上での演舞。

沈下橋は、増水したときに橋が流されないよう欄干を省いた橋です。

シータマン余裕を見せる。「飛ぶわよーん!」


ジーザス「ではまず僕が手本を見せます」


ジーザスが行った!

シータマンがへたり込んだ!


ジーザスとチキンズ(チカと私)、長いこと川を下る。

時々、船から離脱。


ゲストをお迎えしてリトリートの始まり!

ちゃんとアーサナもする。毎日2時間。


制服でトゥース!業務連絡サトーリー待ってます。

サットサンガもする。






猛禽類、水面に急降下。

アンパーンチ!

水族館のような海でピクニック!

西瓜を真剣に見守るのは、小さなあんよの持ち主。

ちかちゃんのカフェ、tane。

恒例の「tane前青春ショット」

また明日から元気に働いて、また必ず会いましょう!

おまけ!女子力向上委員会。

この夏の、この瞬間、私が思っていることは、ちょっとばかり遊びが足りないなってことと、ちょっと休みたいってことかな。

昔は年に一度や二度、日本お一人様旅やってたのにねえ。
いつの間にか忘れてしまってた。

ジーザス・クニヒコ・スーパースターの言葉を胸に、計画してみますかな。
明日の良い仕事のためにね。


つぎはどんな出会いがあるのかな〜。
また来年、四万十川で待ってます!
















2017年8月8日火曜日

スピリット

この夏のウパーサナサンガ大阪編も終わりまして、集ってくれた皆さん、ありがとうございました。

この三か月通しての主題はですね、ひとつの事柄にも複数のリアリティーがあるということでした。このことを理解しておかないと、ヨーガやヴェーダーンタの勉強は勘違いの温床になるからです。

・・・といっても、「このこと」自体を理解するのは、やはり簡単ではないのかも知れないんだけどね。

みなさんが、多岐にわたるワークショップやレクチャーに、いろいろと足を運んで、その結果モヤモヤっとする、その原因は、ここんとこにあるんじゃないでしょうか。

「このこと」に関する自身の理解の欠如、もしくは教える側の理解の欠如、両方があると思います。

先日、ここで書いたマエストロ・ミゲルの歌のレッスンでね、身をもって痛烈に感じたことは、「知的に理解してるのと、知識と一如であることは全く別の話」ということでした。

主体と客体のヨーガ(融合)は、いやはや、「言うは易し」ですよ。

話が逸れた。

多様な次元におけるリアリティーの話。


ここんとこ気になっていた「スピリチュアル」という言葉を例に挙げると、

江原さんがスピリチュアルカウンセラーを名乗ってから日本でもこの言葉が使われるようになった。江原さんがなぜスピリチュアルという言葉をそこに使うかというと、英国のSpiritualist Association of Great Britain でお勉強されたからでしょう。

Spirit-ism、心霊学の協会です。

巷でいうスピリチュアルという言葉は「心霊」にまつわることを指していることがわかります。

Spiritを辞書で調べてみると・・・

①精神、心
②気分、精神状態、快活、元気
③気力、気迫、勇気、熱情、気質、気性、心的態度
④(形容詞を伴って)・・・の人
⑤忠誠心
⑥特質、傾向
真意、意図
⑧霊、霊魂、神霊、精霊、幽霊、亡霊、悪魔、妖精
⑨ a 蒸留酒、火酒、
    b エキス、エッセンス

巷のスピリチュアルは⑧番に対応する言葉です。スークシュマな次元の話。

一方、我々の現場で使われるSpiritの意味は⑦なんですよ。もっと言えば⑨bに出てくるエッセンスという言葉。エッセンスとは「本質」のこと。ストゥーラ、スークシュマ、カーラナの次元の向こうの話です。

生徒の皆さんの理解のために、これらを混同して欲しくないんです。

Spiritualという言葉を翻訳する時に本当に頭が痛い。

Our spiritual pathとかいうセンテンスを「スピリチュアルな道」と訳すのは言語道断。逃げだわ。

精神的な道と書けば、心理的と紛らわしく、仕方ないから霊性という言葉(物質を超える精神性)とか使ってたんだけど、日本語をよく知らない若い人とかは、勘違いするかも知れない。

つまりヨーガ、ヴェーダーンタで「spirit」とは「本質、真理」のことなんだよね。これから全部「本質、真理を求める道」って直すわ。

・・・と、このようにですね、言葉一つとっても色々な次元での意味を持っているでしょ。


複数の次元のリアリティーがある。

リアリティーの奥行きについて理解がなければ、自分の傾向という一方的な立場から、様々な誤解をするでしょう、ということです。

この、相対的な世界において、良心は一つではないんですよ。

いろんな立場の良心がある。

みんながそれぞれの良心と正義を一生懸命に守ろうとしているんだよね。

それぞれの幸せの為に。

だから戦争が起こる。

どっちが悪いとかの話じゃない。

だって、みなが相対的なリアリティーから世界を見るのであれば、それば当然起こって来ることだもん。

この勉強は、相対的なリアリティー=対比の世界の向こうにある、絶対的なリアリティー、万物共通の意識の追究なわけですよ。

たとえ知的な理解だけだとしても、頭の中でシミュレーションが出来る。

「こちらが正しい」「あちらは正しくない」「私は○○については認めない」みたい主張が、どれだけ虚しいことか分かる。

毎年、夏になると、やはり戦争のことを思ってしまいます。

なんかねー、結局、その辺のところが気になる為に、私はこの仕事してる気がするんだな。



人類の思考の望遠鏡。

願わくば、

互いの違っているところ(ウパーディ)に焦点を合わせるのではなく、共通する次元(アートマーの本質)に焦点を合わせられないものか、と。

学術的なこととか、聖典の細かい部分とか、細部に興味もあるし、個人的に知的欲求を満たしたい気持ちもある。だれど、そればっかりに捉われず、みんなに伝えるべき大義がちゃんと伝わるようにしないと・・・。

勉強のための勉強みたいなことにならないように。

みんなが幸せになるにはどうしましょうか、と。

それはともかくとして、この夏も一緒にそんな勉強をしてくれた素敵なみんなに感謝です。東京チームも頑張ってますよ!

ちなみにスピリットの語源は、ラテン語の「息」。プラーナ(息)がブランマンの顕れと言われるのと同じことでしょう。


































2017年8月3日木曜日

炎のマエストロ!

涼しかった昨日、整体院で首をチョチョイっと整えてから、東京文化会館に東京都交響楽団、略して都響のコンサートに行ってきた。


クラスがお休みなのでチケットを取っておいたのです。

「コバケン真夏のシンフォニー」



コバケン



東京文化会館という古いホールの音は、二階の最前列が・・とか五階の左右が・・音響マニアの皆さんに色々と言われるホールです。

今回は、一階の中央右寄り、7列目。

サウンド的にベストポジションではないかも知れないけど、綜合的に良かったんじゃないかな。一点だけ気になったのが、客席の中央奥の方で「チーン」という高周波が頻繁に鳴る。高音域が何かに共鳴してしまっているらしい。あと目覚ましアラーム鳴ってた人がいた(笑)。

座席の位置がステージと同じか若干低いので、管楽器隊とチェロ軍団の姿が見えなかったけど、

・指揮者の横顏が見える
・低音クラブの私としてはコントラバス隊の目の前というのが良い
・コンサートマスターがよく見える。

という点も含めて良かったです。どの席に座っても、楽しみ方はあるのでしょう。
オーケストラの舞台というのは実に多面的。


交響楽の良いところはですよ、音域、音量の両方における、ダイナミックレンジの圧倒的な広さですね。

本当に全身全霊、響きまくって癒されまくり。

炎のマエストロの異名をとる小林研一郎氏ですが、日本の指揮者として世界での知名度は小沢征爾氏に続いて二番手くらいなのかな。私は幼少期に東京文化会館、昨日同じ会場、サントリーホール、杉並公会堂の四ヶ所で、聴きました。子供の時のことは覚えていないけど、チャイコフスキーとマーラー。

ほら、日本はさ、メジャー主義というか、何か流行すると皆同じものを買うような文化があって(ある年インドから帰ると町中の人の殆どが anelloというブランドのリュック背負ってて、まじで仰天しましたからね)、二番手以降は、その道に無知な一般の人に「2ちゃんねる」みたいな場所でムダに叩かれるようなところがある。

でも、素晴らしい指揮ですよ。私は好きです。

指揮をしながら唸るのが嫌、というけどね、キース・ジャレット好きなんですよ、あたしゃ。

同じように好きです、キース・ジャレットとコバケン。


あとね、コバケンのシンフォニーは、なぜだかわからないのですが、聴いた後にものすごく温かい気持ちになる。これは理屈を超えた何かなんだろうけどさ。

なんか愛がいっぱいだなあ、と。


そりゃもう、炎のマエストロと呼ばれるくらいだから、熱いんですよ・・・激しいし。

今回のコンサートだって、「暑い夏にこそ、暑苦しいコバケン聴こう!」みたいコピーだったからね。

でも、オケとのコミュニケーションが人間的というか、個人的な喜びの表情も隠さないのね。そんな時のコバケンは、孫に相好を崩す好々爺みたい。

なにかが優しい。

いやー、良かったです。

必要だわ、こういう時間・・・としみじみ思った次第。

演目は、

ベートーヴェンのエグモント序曲
ベートーヴェンの5番
ドヴォルザークの8番



ということで、以下は完全なる萌え萌え独り言ですから、スルーして下さい。

5番の第2楽章のあたま、ヴィオラ、チェロ隊、美しかった〜!情緒〜!萌えーっ!。美しくも切ないその音に、コバケンも「孫の前のお爺ちゃん顔」で答えていた。


5番は1楽章の「ジャジャジャジャーン」で有名な「運命」、ジャジャジャジャジャのスタッカートが激しく極まるところ。7名の弦バス隊の弓が、弦にバッチバチ当たる音が(目の前だから)聞こえて萌えーっ!

コンマスが「北の国から」の純くんみたいな人のに、体がついていってしまうタイプ、深く抉るようなノリに萌えーっ!

オケの中で一番に指揮者を凝視しているであろうティンパニーの人の眼光の鋭さ。激しい時に鬼瓦みたいな顔から繰り出される雷鳴に萌えーっ!

ドヴォルザークの最終楽章で、ホルンのボリュームが突然最大になるところ、楽器を高々と掲げ、天を引き裂くような音で吠える。勇壮なサウンドに萌えーっ!しかも数回しか出てこないよ。カトちゃんの「ちょっとだけよ〜」だよ。作曲家っていのは良くわかってるわね。


いやー、萌えた萌えた。

閑話休題。

指揮だけをとってみても、鼓笛隊や、「8時だよ全員集合」のポップス歌手のバックバンドの指揮とは違い、オーケストラの指揮って抽象的で分かりにくい。

音そのものにしても、ポップやロックの情緒表現は分かり易いよね。たとえば悲しい音、フラストレーションの音、うきうきする音。その中の一色のみ。あるいは一色から一色への移行。

実験音楽も面白いが、無作為とか抽象という概念に執着し過ぎて、かえって作為的に聞こえたりもする。

そこいくと、ありとあらゆる情緒が、互いに矛盾を孕みながら、ぎっしりとつまっているのが交響曲の魅力でしょうね。さまざまなコントラディクションを一緒くたに包括している。まるで世界のように自然。

そう、シンフォニーは世界だ。

そして、少なくとも子供時代から十代まではこんな気持ちで生きてたな。

悲しさと嬉しさ、怒りと許し、さまざまな矛盾を同時に包括しながら。

いつしか大人になって、その時々の感情を、「怒ってる」「悲しい」「嬉しい」・・・一つのカテゴリーに閉じ込めてしまうようになったのは、一体いつからだろう。

小賢しくなったもんだ。

「地獄に落ちろ!」で読者にはお馴染みの伊藤康麿先生は、ゼミでこのように仰っていた。

「すべての芸術は音楽に憧れる」

それは、その抽象性、包括性によるところなのでしょう。

音楽は言葉を持たない。
意味も持たない。


ただただ果てしない空間の存在を、知らしめるだけ。

音楽は、言葉を超えた向こうにあるもの。

前衛的な現代詩人であった先生は、お若い頃に、切々と音楽に嫉妬したのでしょうね。


そうそう!

小さいお子さんがいらっしゃる方、子供達が交響楽に触れる機会を作ってあげるのはどう?

たとえば今週末の都響だったら、上野の東京文化会館で、夏休み子ども音楽会がある。

小・中学性は1000円。親は座席によって1000〜3000円。

この企画のすごいところはですね、コンサート当日限りだけど、コンサートの半券を、動物園などの無料1dayパスと引き換えて貰えるところですよ!

夏休みの絵日記ネタ満載の一日になるしね。
お子さん喜ぶと思います。


というわけで、皆さんも良い週末をお過ごしください!






2017年7月24日月曜日

数秘とカウンセリング

いつもお世話になってる、マーキチの母、岩原京子さんのヌメロロジーカウンセリングを受けました。


これは昭和の写真ではありませんよ。お揃いのサリーで京子さんとパチリ。れっきとした平成写真です。でも、私は帰国前夜で祭りのあとだったかな・・・見よ、このお疲れフェイス!

京子さんに出会ったのは数年前の大阪のクラスです。が、私は東京に住んでいるので、実際にいろいろお話させていただくようになったのは、私がスワミGと一緒にいるところに彼女が遊びに来てくれてからです。

関西の人と密に接することが稀だった私にとっては「さすが大阪!テンション高いお母さんだなー!」という印象でしたが、なぜか最近それが揺らいできました。

「あれ?この方もしかして、なんかちょっと小綺麗なキチンとした人?」って。

なんでだ?と思っていたら、以前カウンセリングのお仕事をしていた京子さんが、最近カウンセラーとして復活してたんです。

どうりで。

なんだか客観的な視点に立つ人になってたんですね。


「子育てが苦手なお母さん」が、子育てと向き合ってきた経験を通じて、主に子供とのコミュニケーションの相談を受けていらっしゃる。

そんな彼女のお仕事を覗いてみたかったのだけど、私は子供がいないので、チャンスがないと思っていたら、彼女のもう一つの得意技、数秘術を生かしたカウンセリングを始めたらしい。

ということで、私さっそくお願いしました。


数秘術が語る「私」に関しては、とくに目新しいことはありませんでした。
全部よく知ってることです。

ただ、これは私が自分に対して、偏執的な分析&観察マニアだからであって、みなさんはきっと目新しい情報が出てくるはず。

それにしても、数秘も、ジョーティッシュや四柱推命と同じことを言ってくるのが不思議なのよね。

カウンセリングはスカイプで、最初に送られてくるPDFのファイルを見ながら対面で行われます。

PDFのチャートに京子さんが手書きで、短いメモを書き足してくれているから、分かり易い。

例えば

・持って生まれた才能は忍耐強く面倒見がいい
・献身的な生き方で名をはせる人
・極上のお世話好き、伝統的、保守的、几帳面、良心的
・人に特別な貢献をする人、好き嫌いがハッキリ、一匹狼
・今回の人生で信頼について学ぶと決めている
・願望、内なる動機は分析好き、ひとり好き
・他人からの目は寛大であったかい人、知的、哲学的
・感情的、直感の人、ぼんやりしている
・頭が固くて融通がきか無い
・せっかちで移り気
・がまん強く、もの静か、仕事好き
・知性の面では創造的で楽観的

などなど。


ま、そのまんま、自分てこういう奴だなって思ってる通りでした。

一番うれしかったのは、だあれも信じてくれない「私ひとりが大好き!」という事実を数秘術がしつこく語ってくれたことですね。

警戒心が強い私は、駅のプラットフォームにも「ゴルゴ13」のつもりで立ちますからね。




少なくとも、京子さんだけは、こんな私を理解してくれていると思うと、とても安心しました。世界に2、3人くらいの人しか知らないと思うが。


面白かったのは、京子さんが時々、手元でゴニョゴニョやってるんですよ。何してるのかと思うと、一言で言い表したい時に、カードを引いたりしてるのね。

時系列で話してる時だったんだけど、そのカードが、私の30代前半までは「Patience」、今「Efficiency」、将来「Awakening」と(笑)。

だって「忍耐」→「能力」→「覚醒」だよ。

わくわくですわ、人生。

10代から30くらいまで、なんかね、本当にしんどかったんですよ。どうにも誰とも心から分かり合えてる気がしなくて、文学を地で行っちゃってましたから。中学、高校時代も、周りの女子達の考えてることなんてまったくの意味不明でした。

通じていると思えた人は二人だけ。ひとりは死んじゃったし。

でも、今はだいぶ良い感じに人生を廻せてると思う。

忍耐な時代はね、苦く、甘く、あれはあれで魅惑ではあったのだけどね。

時は戻せないから。


私の場合は、総じて

「繊細で内向的だけど人の上にたち、クリエイティブな考え方と高い言語能力で仕事を手際よくこなします。警戒心が強いけど善悪を見極める目はある。生まれながらの人道主義者でありヒーラーで、直感を使ってお金の為ではない働きをする人。共感力が強く、包容力もあるし、人からの助けをたくさん頂く人」

ということでした。

これらの情報を踏まえた上で、社会で迷子になった人達に、どのように社会と付き合うか、ということを本人に整理整頓させるのが京子さん達カウンセラーのお仕事なんだなって思った。

社会とはつまり家族、学校、職場、地域。

核家族が主流となった今、近所の相談役のおっちゃんみたいな人はもはや絶滅。

家庭という一番小さな単位の社会が陸の孤島になる時代です。

いままで見たどの京子さんよりも、どっしりと落ち着いて、カウンセラーでした。

人が、地に足をつけて生きていく為に、このようなお役目の人がいてくれるのは良いことだなあと思いました。

個人的に共感を持てたのは「収入が何倍にもなる」「勝ち組になる」とか、そういう如何にも的な私の嫌いな言葉が一切出てこ無いところですね。

興味のある方は、あと若干名ですがモニターを募集してらっしゃいますよ。

「お母さんでいること」が苦手で仕方が無かったお母さんは、苦手だったからこそ、懐の深いお母さんに進化した。

「才能を発見するカウンセリング」という主旨のタイトルですが、内容はもっと汎用性が広いという印象です。誰にも相談出来ない悩みがあるときには、ダウントゥーアースな京子先生のドアを叩いてみてください。子供達に綺麗な未来を贈りたい、大阪のお母さんです。お願いしたら講演などもきっと受けてくださると思うよ。


詳細はこちら




















8月のシータマコさん



椎田万蔵先生は「おろち流(サリー)着付け教室」の師範ですが、名前の似ている「さいたまんぞう」の「なぜか埼玉」はどんな曲だったかチェックしてみた。

♬ なぜか知らねど〜
夜のシータマは
老けていく老けていく
シータマの夜
どうにもならないあなた
あきらめないで ああ〜


・・・なんだっ!この歌はっ!


どうぞスルーしてください。ぜんぶ私の妄想劇場です。

だって、みんながいろんな名前で呼んでくれるんだもん。楽しくてさ。
シータマ、スーパーティーチャーシータマン、シータマコ、などなど。
いろんな人が私の中にいるみたいで面白い。
でもしーたまんぞうは自分でつけました。

あ、着付けもちゃんと教えますよ。
これまでに「パイソン」と「うわばみ」がオロチ流を卒業しました。
現在「青大将」は修行中です。

なぜオロチかというと、なんででしょうね。

蛇のようなパワーと執念でぜったいに修行を成し遂げよう、ということで、パイソンと作った女子会「ナーガルサンガ」が前身ですね。私オロチとパイソン弘美、他にうわばみとつちのこがいます。



スルーしてください(笑)。



サリーは、これまた不思議な衣料なんです。私にとって。

ものすごい安心感というか安定感をもたらす。

「I'm home!」

って感覚です。

当初、何度教わっても難しかったのが、ある時、突然に思い出した。

「あれっ!私、これ、毎日着てたわ!」

それ以降するするっと着られるようになったわけです。

そして、教えてくれてたトゥラシマタは、私に伝授したあと、きれいさっぱりそれを忘れた(笑)。

ちなみに写真は、カマレーシュ・コウキさんに撮っていただいた大好きな写真。

一般的なサリーではなく、ケーララの衣装、上下セパレートです。通称セットゥムンドゥといいます。セットゥというのは英語のセット、ムンドゥは男が腰に巻いているドーティーのこと。正装ではアンガヴァストラム(マラヤーラム語はド忘れした!)上衣の布も着用するので、ケーララは男女が同じ服ってことです。無漂白のさらし綿でとても気持ちいいよ。



8月はいつも通り、芝浦での水曜19時オープンクラス(どなたでも予約なしでOK)に加え、過去のウパーサナサンガ参加者向けのステップアップグループ120分が、毎週木曜10時半より。

8月19日(土)には港のヨーコの横須賀で、ゆったり系アーサナと、ヨーガの意味をお伝えするお話。一般の場でイキナリ難しいことをお話しても伝わらない場合がほとんどである、という経験をふまえ、聴くだけではなく、みなさんに自分で考えてもらうワークを行います。自分的にはちょっと新しい試みですね。

8月20日(日)は鎌倉のいつもの由比ヶ浜公会堂でサットサンガです。瞑想して、ジャヤガネーシャ歌って、そのあとお話しますけど、今回、トピックは皆さんご自身に決めていただこうと。日頃の悩みや疑問、なんでも構いません。

実は私がやっているウパーサナサンガではこういった疑問をみんなでシェアして話し合う時間が多いんだよね。これが本当に実になる時間というか。ということで、どしどし質問待っています。

詳細はコチラのスケジュールページでご確認くださいね。お申し込みは主催してくださっている方へ直接お願いします。

懐かしのさいたまんぞう、チェックしてみてください!



2017年7月22日土曜日

真夏の夜は・・・

私にとって、梅雨明け前の7月といったら、ユーライアヒープの「July morning」、梅雨明け後は「Summer Breeze」のアイズレーブラザーズによるカヴァー版・・・・な季節なんですよ。

しかし、今年・・・なんだかちょっと違う色に塗り替えられた気がするんだな。


マエストロ・ミゲルとの三日間に続き、大阪から始まる近畿地区での濃い四日間を終えて、しばしの放心タイムを経て、ようやくコンピューターの前に戻ってきました。

大阪で打ち合わせ。


たつの。りっくん、ありがとねー。


あらためまして、皆さんに感謝をお伝えしたい。たつの、京都でのワークショップと講義、そして大阪でのCD発売ライブに足を運んでくださった皆様、遠くから応援して下さった皆様、ありがとうございました。

普段お話をする機会がない方々ともおしゃべり出来て、また一つ世界が広く、そして近くなった。

綺麗な心に、会いたかったの。

そして沢山たくさん会えました。

なんと、九州とか東京とか、本当に遠いところから来てくださった方もいて、もうどっちに足を向けて眠ったらいいのやら・・・って感じです。


本当にありがとうございました。




ちょっと話題が偏りすぎて反省している京都



この間、とても慌ただしく、のんびり屋(・・・という職業があったらやりたい)の普段の私のマイペースはすべて放棄という感じでした。

野犬と同じなので、私は、実は社交的な場面において人になつくのにとても時間がかかります。社交の場面の私は、あれは結構、社会的に当たり障りのない人格を演じてますからね。人に慣れてきて気が緩むと、自分でも、ちょっと、この人は何を言い出すか分からないというか、地味なくせに意味不明なことも多いので、気をつけてる。

無駄に人を傷つけたく無いし、みんな同士に良い感じに仲良くしていて貰いたいし。
結構ちゃんと計算してます。

ただ、演台とか、音楽のためのステージに上がっている時が、素の私に近いのかなって、今回思ったのでした。

「私」がとても楽なのでした。

とくにステージの上はねえ。

こんな楽なところがあったのかあ。忘れてたわ。すっかり。

マエストロも仰ってた通り、アートには今と主体しか無いからね。

過去を悔いている間に、今がどんどん、先にいっちゃう。

必死に今にいないと、それは成立しなくなっちゃうから。


↑「今だけがある」例
JUNさんとAMALAさん


以前、預言カフェにいった話を書いたけど、ライブ後に「最前線が一番安全ですよ」って言われた例の話をしていたら、岡野さんが仰った。


「最前線は一番安全だよ。正直でいれば。」


この7月。

私は、いちばん正直な自分に還っていく、その道標を定めたような気がする。

これは、私にとっては、かなりわがままなことですよ。

でも、自己を中心とするところに、一番自然なところに、何年後になるかわからないけど、きっちり帰り着こうと思います。

その時、私はどんな姿になっているんだろうな。

最後になりましたが、 オープンハートで野犬を手なずけて下さった皆様に感謝です。

さあ、夏は始まったばかり。

次は、四国、関東、北陸で会おう!


広本さん、岡野さん、あゆみちゃん、まほちゃん、あかねちゃん
そしてマーキチでかくなったな。

才能に満ちたプロデューサー栄子さん
もしかして自分では気づいて無い?


楽屋メンズクラブ!


光の人は純子さん!


朱夏と聖歌隊と私。


チーム受付、一番のしっかりもの達。
眩しい若い力。


またこのメンバーで集まれたらいいな。

またきっと皆さんにどこかで再会したいな。

シータマンの練馬の夏は、今宵JBとともに更けていく。

またね。

























2017年7月11日火曜日

マエストロに会って来た!

みなさん、こんにちは。すっかり夏模様ですね。



さっき外に出たら、なんだか気持ち良くて、「いや〜涼しいわ〜!」なんて呟いていたんだけど、勘違いだったみたいです。暑いわ(笑)。

ちなみに写真は本文と全然関係ありません。もうすぐ夏の恒例の誓願寺ワークショップなので、四年前の誓願寺さんの時の写真を。

うどんが・・・身長より長くてショックを受けました。


さて、先日、このブログにて紹介させていただいた、歌の先生、マエストロミゲルにお会いしてきました。


初日の、レクチャーでのお話がすごく良かった。私らが普段扱っているテーマだったから、余計に楽しめました。なので、このお話をみなさんにシェアさせて下さい。今日はちょっと長い記事になります。

以前、ダライ・ラマ 猊下のお話をシェアしましたが、あの時は、ペンや電子機器の持ち込みが禁止されていて、最初から脳内ハードディスクに録音スイッチを入れていたの。今回はリラックスして聞いていたのでザックリ要約になります。ご勘弁を。


歌のマエストロ、ミゲル・アンヘル・クルティ先生のお話です。


「今日は皆さん、ようこそお越しくださいました。

私は歌を教えています。教えるというと、一般的に「テクニック、技術を与えること」と捉えられますが、私の場合はそうではありません。音楽の本質は技術にはないからです。

世界のトップを走るテクノロジー大国ニッポンで、こんなことを言うのは、アルゼンチンで「肉食は良くない!」と言っているようなもので、非常に恐縮なのですが・・・。

人類には知性があり、この知性によってさまざま技術が革新され、世界は発展してきました。技術は素晴らしいものです。とても役に立ちます。

しかし、知性というは、自分の外側の世界を克服する、あるいは侵略する為のものです。それは内側の世界には及びません。

声は、実は外側の世界に属するものではありません。主体である自分自身の投影なのです。自分が原因であれば、声は結果です。原因をさておいて、 結果である声をコントロールしようなんて、無意味なことです。

技術が外側の世界を対象とするのとは反対に、芸術は内側の真理を追及するものです。アートとテクノロジーは対極にあるといってもいい。

そういう意味で、テクニックの追及に明け暮れたこの200年間の芸術界はひどいものでした。

テクニックに雁字搦めになって、自分の声を失っているとしたら、それは残念なことです。それらの障害物を一つ一つ取り外して、もっと自由になる。そのお手伝いをするのが私の仕事です。音楽は技術ではなくて芸術だから。

自身の声を、客体(自分ではないもの)として捉え、侵略(コントロール)しようとするのではなく、全てが包括されなくてはなりません(自分と自分じゃないものの区別がなくなる、全てが自分になる)。」


・・・と、こういうお話をされていました。

参加者からの質問に対するお答えで、一瞬私が通訳させていただいた場面がありました。日本語向きに言い換えれば良かったな・・・と後悔してる。ちなみに質問は役者さんからで「外で役を演じ続けているせいか、家に帰るとなんとも言えない疲れがあって、もはや自分の本当の声がわからない」というものです。

「あなたではない役を演じるのではなく、役そのものになってしまいましょう。全てが包括、統合されれば疲れません。」

これ、ちょっと難しい表現です。

シータマン的にいうと、

自分以外のものになろうとするから疲れる。自分でいれば疲れない。

全てを自分として受容してしまえばいい。

これ、すごいこと言ってますよ。

ヴェーダーンタだね。

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私は、あかねちゃんとのグループレッスンに加え、2回の個人レッスンを受けてきました。最初の時に「時間が必要な人」と言われてたのですが、結果的には、早かった気がする。最後のレッスンの時に、これまでの人生で自分の喉から聞いたこともないような声が出てビックリ。

ペーパードライバー教習2時間というのに行った時、あまりの運転の下手さに教官が「むううう、こ、これは・・・ちょっと一日じゃ無理かもしれない」と眉を寄せていたのだけど、結局2時間で卒業。「あんた性格いいからすぐ上達したね」となりました。

どの治療家にも「うわっ!反応が速いっ!」と言われる。これに関しては我ながら瞬速ですよ。先週も「体が素直っていうか単純てことだな(笑)」とある先生に言われました。

マエストロが「時間のかかる人」と仰ったのは、私が、他人に心を開くのに時間が掛かるってこと、見抜いてのことだったのでしょう。

ただ先生は別。危険な冬山では、山に精通したガイドの言うこと聞かないと死んじゃうし。そこ、専門家に身を委ねるのはけっこう得意です。

自分の話になりますが、

私は自分のことを客観的に観察して、

「あっちの端っこと、こっちの端っこを同時に持っている人間」

と思っていました。

よく言えばダイナミックレンジが広いんだけど、真ん中がない。

エクストリームなドンシャリサウンド。

これをラジカルと表現した人もいた。

いろんな側面においてそれが言えますが、マエストロは、この内ある一つの面についてズバリ指摘してきた。

声を聞いただけなのに!なんでだー!

「一方の端が、もう一方の端を否定していて、自分が引き裂かれそう。」

「そのうち一方は持って生まれた性質、もう一方は外から植えつけられた価値観。持って生まれた性質を尊重して、受容しましょう!それは悪いことじゃない。美しいことです。もっと自由に!音楽です!自分です!」


その受容を、歌うという行為を通して試みるわけですよ。

その結果として、聞いたことのないような声が出た・・・と。
まだ、始まったばかりだけどね。

音楽療法ともまた違う。

結果だけみると、カウンセラーの人達が臨床で行っていることですね。セラピーです。

しかも、もやっとしたスピリチュアルみたいなことではなく、はっきりした現象であったリアル。

ただ、声に精通している人間じゃないと、これは出来ないねー。

どんな分野でも、その道に精通しまくった人というのは、こういうことなんでしょうね。

マエストロすごい。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、ヨーガの先生という肩書きだけど、体操よりはお話をしていることが多い。マエストロが講義で仰っていたようなことを、言葉を使って他者の知性に訴えかけています。

教えているからには、多少なりとも知的な理解があるということです。しかし、知的に理解しているからといって、それを体現出来ているかというと、それは別の話だ。今回マエストロと時間を共にすることで、それをハッキリと認識しました。

知性はすごい。すごく機能性高い。でも、すごいからこそ私たちを捕らえて離さない。知性は私じゃないものなのに、私のフリをしてくる。自分がいかに知性にコントロールされているか。

「頭でっかちにならないで、私たちはもともと自由なんだから」

っていつも言ってるのに、知らないうちに頭でっかちになってる。歌ってみてハッキリそのことに気づきました。逆に、歌わなかったら気がつかなかった。まじで。


今回、一日、通訳としてマエストロにアテンドさせていただいたのですが、自分も含め、他の方のレッスンに立ち会っていても、そのことについて、ヒシヒシと考えさせられましたね。

三回のレッスンで、私が変わったかどうか。それは目に見えないから自分でも分からない。分かってるのは、思ったよりもずっと早く、私がマエストロに心を開けたということだけ。

求めるものは認識の変化なんですよ。

もっと自由に!もっと自分を楽しんで!

それがマエストロからのメッセージです。

私は、これまで歌を演じてただけ。

歌を真似してただけだったんだな。

自分が歌になっていなかったんだな。

おそらく、このブログの読者もたくさん、マエストロに会いに行くんじゃないかな。グループレッスンに申し込んでる方いらっしゃったら、個人レッスンを複数回受けてみることをお勧めします。

今回逃した方は、来年一月に再来日される予定です。

チャオ!























2017年7月5日水曜日

性格診断忘備録。

このテストやってみたから結果の忘備録。


https://www.16personalities.com/ja
かねがね自分は仲介者だと思っていたんだ。一般的な意味で。
以下テスト結果。
あなたの性格タイプ:
“仲介者”
(INFP-A)
外向型
内向型
48%
52%
直感型
現実型
77%
23%
論理型
道理型
33%
67%
計画型
探索型
0%
100%
自己主張型
慎重型
77%
23%





















仲介者型気質の人は、真の理想主義者で、極悪人や最悪の出来事の中にさえも、常にわずかな善を見い出し、物事をより良くするための方法を模索しています。落ち着きがあり控えめで、内気にさえも見られますが、内には激情と情熱があり、まさに光を放つ可能性を秘めています。全人口のわずか4%を占めているだけで、残念ながら、誤解されていると感じることが多いかもしれません。しかし、同じ考えを持つ人々を見つけて共に過ごす時、そこで感じる調和が、仲介者型にとって、喜びやインスピレーションの泉となるのです。

外交官グループに属し、理論(分析家)や刺激(探検家)または実用性(番人)ではなく、自身の信条に基づき行動します。前に進むための方法を決定する際、名誉や美点、道徳、美徳に目を向け、賞罰ではなく、自らの純粋な意志により導かれます。仲介者型の人達は、この気質を誇りに思っていますが、それはごく当然のことです。しかし、誰もがこうした感情の裏にある原動力を理解するわけではなく、孤立することもあります。
金はすべて光るとは限らない。放浪する者が皆迷っているとは限らない。年老いても強いものは枯れない。深い根に霜は届かない。



J. R. R.トールキン

今の自分のことは分かっているが、今後どうなるかは分からない

こうした気質を最大限に発揮することで、他人と親身にやり取りしながら、難なく比喩表現やたとえ話を用い、シンボルを理解し生み出しながら、自分の考えを共有できます。こうした直感的なコミュニケーションスタイルは、創造的な仕事に向いているため、仲介者型の有名人の多くが、詩人や作家、俳優であるのも不思議ではありません。自己理解と世の中における自分の立場を重視し、自分の作品の中に自身を投影させることで、こうした思想を探求します。
自己表現力があり、比喩や架空の人物を通して自分の美点と秘密を明かします。
その言語能力もまた、母国語にとどまらず、外交官タイプの大半がそうであるように、第二言語(時には第三言語まで!)の習得に非常に長けています。また、その優れたコミュニケーション能力は、外交官の永遠のテーマである調和を追求する際にも役立ち、この能力により、自らに課せられた使命と出会った時に前進できるのです。

多くの人々の話を聞き、わずかな人に話す

しかし、他の外向型とは異なり、仲介者型は、ごくわずかな人々やひとつの価値ある目的にのみに集中し、一度に多くのことをやろうとすると力尽き、さらには世の中のあらゆる修復不可能な悪に落胆して、打ちのめされることさえあります。これは、仲介者型の人達の楽観的な見方に頼ろうとしていた友人にとって、悲しい光景です。
善を探求するあまりに自分自身を見失い、生きて行く上で欠かせない日常生活の維持を疎かにしてしまう可能性もあるので注意しましょう。仲介者型の人達は、他の性格タイプよりも、よく思いにふけり、楽しみながら物事をあれこれ想定したり、哲学的な事柄について思い巡らせたりします。放っておくと、まるで隠者のように引きこもったまま連絡が途絶え、友人やパートナーが、多大なエネルギーを費やして、現実世界に連れ戻すことになります。
幸い、春には花が咲くように、仲介者型の人達の愛情深く創造性に溢れ、利他的で理想主義的な気質は、常に戻ってきます。そして、行く先々で仲介者型自身とその家族や友人に、おそらく理論や実用性ではなく、思いやりや親切な心、美に息吹を与える世界観をもたらすのです。

そばに座って。

ウパーサナサンガという勉強会をやっている。何年になるんだろう。もう忘れたけど(笑)、いろいろな土地で、生徒さんと顔を付き合わせて、話を脱線させながら泣いたり笑ったりしている。いや、ホント、みんなよく泣きます(笑)。

私自身も、生徒としていろんなグループの中で学んできたけど、ウパーサナサンガは他に見ない特殊な形態かもしれません。それも、関係性の中の一つの結果なんだろうけれど。

みんなが自由に発言して、それをみんながちゃんと聞いていて、みんなが一緒に考えて、みんな素晴らしいですね、本当に。

私も、生徒の皆さんとの関わりの中で、沢山のことを教わってる。新しい発見と理解をいただいているし、本当に美しいものを、いつも、いつも見せて貰ってる。


子供の頃、学ぶということは、大人に押し付けられた義務だった。

しかし、大人になって、学ぶことが、知的な欲求を満たす快感であることを覚えた。

これはね、実は、落とし穴ですよ。

こういった感覚的な喜びというのは、性的快感、味覚的快感などと同じで、所詮、一時的なものであって、相対的な世界で目的を見失って、学ぶという行為に溺れ、迷子になっていく大人たち。

虚しい。

私はきっと欲深い人間だから、もう虚しいのは嫌なんだ。

走馬灯のように、現れては消えていくものたちを、追いかけるのはもういい。

ずっと無くならないものが欲しい。

みんなにも虚しくないものをあげたいんだ。


例えばインドの知識体系にも、様々な学派がありませすが、学びの行為に溺れ、精神的近眼に陥っていると、全体像が見えなくなる。全体像が見えなくなると、目的を見失う。

目的を見失うと「私」と「私の」善しか見えなくなる。


それら全ての知識体系が何千年も保全されてきたことには意味がある。意味があるというのは人類の究極の福利、そう、メリットがある。

もし、どこかで学んでいて疑問に思ったら、この教えが人類にもたらす福利とは何ですかと、先生に聞いてみたらいいと思います。

知的好奇心が満たされるとか、知ってると人から尊敬されて集客が倍増(笑)みたいなこと言われたら、はい、それまでよ!ってことで。

私が先日、ある翻訳本を読んで「なんじゃ、こりゃ!こんなの出版しちゃだめだよ!」とSNSで呟いてしまったのは、その本が目的を見失った「迷子」だったからです。

私たちは、たとえ一時的でも、人に伝える仕事をしている以上、心の中に、たった一つの「それ」をきちんと見据えていないといけないし、「私」の善だけしか見えないなんてことにならないように、心をキレイに掃除しておかないといけないと思う。


そんな時に、脚本家の倉本聰のインタビューの映像を見て、非常に共感しました。


「加藤道夫という劇作家の『ジャン・ジロドゥの世界』という小さい本の、" 街を歩いていたら良い顔をした男に出会った。きっと良い芝居を見た帰りに違いない "という言葉を読んでこの道に入った。良い顔になった人は、人に良い顔を伝染せるから。」


「(観る人の)心を洗う、僕は自分の仕事を心の洗濯屋だと思っている。それが一生かけての僕の仕事だよね。」

「(表現者として何に気をつけておけばいいかというと)心の中のピュアさだと思う。八千草薫さんの綺麗さ美しさっていうのは心の綺麗さだと思う。歩いてきた人生の中での、対処する物への・・・本当に心の綺麗さだと思う。だから何をやってもあの人は綺麗だよね。」


「みな発信技術ばかり身につけようとするんだけど、発信技術が30%だったら受信技術は70%ですよ。」

「実際に我々は普通の社会を見てその中で暮らしているのだから、普通の社会のなかにこそ無限に教材がある。」


・・・・というような事をおっしゃっていました。

アンタッカラナシュッディの大切さというのは、人の普遍的な必然だよね。それはシャバ=行為の世界でしか出来ない。どれだけ聖典を読んでいても、これを忘れていたら、ワークしない。

私は、生徒の皆さんの良い顔に、本当に心を洗われているなあって思います。

ありがとう。