2017年7月5日水曜日

そばに座って。

ウパーサナサンガという勉強会をやっている。何年になるんだろう。もう忘れたけど(笑)、いろいろな土地で、生徒さんと顔を付き合わせて、話を脱線させながら泣いたり笑ったりしている。いや、ホント、みんなよく泣きます(笑)。

私自身も、生徒としていろんなグループの中で学んできたけど、ウパーサナサンガは他に見ない特殊な形態かもしれません。それも、関係性の中の一つの結果なんだろうけれど。

みんなが自由に発言して、それをみんながちゃんと聞いていて、みんなが一緒に考えて、みんな素晴らしいですね、本当に。

私も、生徒の皆さんとの関わりの中で、沢山のことを教わってる。新しい発見と理解をいただいているし、本当に美しいものを、いつも、いつも見せて貰ってる。


子供の頃、学ぶということは、大人に押し付けられた義務だった。

しかし、大人になって、学ぶことが、知的な欲求を満たす快感であることを覚えた。

これはね、実は、落とし穴ですよ。

こういった感覚的な喜びというのは、性的快感、味覚的快感などと同じで、所詮、一時的なものであって、相対的な世界で目的を見失って、学ぶという行為に溺れ、迷子になっていく大人たち。

虚しい。

私はきっと欲深い人間だから、もう虚しいのは嫌なんだ。

走馬灯のように、現れては消えていくものたちを、追いかけるのはもういい。

ずっと無くならないものが欲しい。

みんなにも虚しくないものをあげたいんだ。


例えばインドの知識体系にも、様々な学派がありませすが、学びの行為に溺れ、精神的近眼に陥っていると、全体像が見えなくなる。全体像が見えなくなると、目的を見失う。

目的を見失うと「私」と「私の」善しか見えなくなる。


それら全ての知識体系が何千年も保全されてきたことには意味がある。意味があるというのは人類の究極の福利、そう、メリットがある。

もし、どこかで学んでいて疑問に思ったら、この教えが人類にもたらす福利とは何ですかと、先生に聞いてみたらいいと思います。

知的好奇心が満たされるとか、知ってると人から尊敬されて集客が倍増(笑)みたいなこと言われたら、はい、それまでよ!ってことで。

私が先日、ある翻訳本を読んで「なんじゃ、こりゃ!こんなの出版しちゃだめだよ!」とSNSで呟いてしまったのは、その本が目的を見失った「迷子」だったからです。

私たちは、たとえ一時的でも、人に伝える仕事をしている以上、心の中に、たった一つの「それ」をきちんと見据えていないといけないし、「私」の善だけしか見えないなんてことにならないように、心をキレイに掃除しておかないといけないと思う。


そんな時に、脚本家の倉本聰のインタビューの映像を見て、非常に共感しました。


「加藤道夫という劇作家の『ジャン・ジロドゥの世界』という小さい本の、" 街を歩いていたら良い顔をした男に出会った。きっと良い芝居を見た帰りに違いない "という言葉を読んでこの道に入った。良い顔になった人は、人に良い顔を伝染せるから。」


「(観る人の)心を洗う、僕は自分の仕事を心の洗濯屋だと思っている。それが一生かけての僕の仕事だよね。」

「(表現者として何に気をつけておけばいいかというと)心の中のピュアさだと思う。八千草薫さんの綺麗さ美しさっていうのは心の綺麗さだと思う。歩いてきた人生の中での、対処する物への・・・本当に心の綺麗さだと思う。だから何をやってもあの人は綺麗だよね。」


「みな発信技術ばかり身につけようとするんだけど、発信技術が30%だったら受信技術は70%ですよ。」

「実際に我々は普通の社会を見てその中で暮らしているのだから、普通の社会のなかにこそ無限に教材がある。」


・・・・というような事をおっしゃっていました。

アンタッカラナシュッディの大切さというのは、人の普遍的な必然だよね。それはシャバ=行為の世界でしか出来ない。どれだけ聖典を読んでいても、これを忘れていたら、ワークしない。

私は、生徒の皆さんの良い顔に、本当に心を洗われているなあって思います。

ありがとう。