2017年7月11日火曜日

マエストロに会って来た!

みなさん、こんにちは。すっかり夏模様ですね。



さっき外に出たら、なんだか気持ち良くて、「いや〜涼しいわ〜!」なんて呟いていたんだけど、勘違いだったみたいです。暑いわ(笑)。

ちなみに写真は本文と全然関係ありません。もうすぐ夏の恒例の誓願寺ワークショップなので、四年前の誓願寺さんの時の写真を。

うどんが・・・身長より長くてショックを受けました。


さて、先日、このブログにて紹介させていただいた、歌の先生、マエストロミゲルにお会いしてきました。


初日の、レクチャーでのお話がすごく良かった。私らが普段扱っているテーマだったから、余計に楽しめました。なので、このお話をみなさんにシェアさせて下さい。今日はちょっと長い記事になります。

以前、ダライ・ラマ 猊下のお話をシェアしましたが、あの時は、ペンや電子機器の持ち込みが禁止されていて、最初から脳内ハードディスクに録音スイッチを入れていたの。今回はリラックスして聞いていたのでザックリ要約になります。ご勘弁を。


歌のマエストロ、ミゲル・アンヘル・クルティ先生のお話です。


「今日は皆さん、ようこそお越しくださいました。

私は歌を教えています。教えるというと、一般的に「テクニック、技術を与えること」と捉えられますが、私の場合はそうではありません。音楽の本質は技術にはないからです。

世界のトップを走るテクノロジー大国ニッポンで、こんなことを言うのは、アルゼンチンで「肉食は良くない!」と言っているようなもので、非常に恐縮なのですが・・・。

人類には知性があり、この知性によってさまざま技術が革新され、世界は発展してきました。技術は素晴らしいものです。とても役に立ちます。

しかし、知性というは、自分の外側の世界を克服する、あるいは侵略する為のものです。それは内側の世界には及びません。

声は、実は外側の世界に属するものではありません。主体である自分自身の投影なのです。自分が原因であれば、声は結果です。原因をさておいて、 結果である声をコントロールしようなんて、無意味なことです。

技術が外側の世界を対象とするのとは反対に、芸術は内側の真理を追及するものです。アートとテクノロジーは対極にあるといってもいい。

そういう意味で、テクニックの追及に明け暮れたこの200年間の芸術界はひどいものでした。

テクニックに雁字搦めになって、自分の声を失っているとしたら、それは残念なことです。それらの障害物を一つ一つ取り外して、もっと自由になる。そのお手伝いをするのが私の仕事です。音楽は技術ではなくて芸術だから。

自身の声を、客体(自分ではないもの)として捉え、侵略(コントロール)しようとするのではなく、全てが包括されなくてはなりません(自分と自分じゃないものの区別がなくなる、全てが自分になる)。」


・・・と、こういうお話をされていました。

参加者からの質問に対するお答えで、一瞬私が通訳させていただいた場面がありました。日本語向きに言い換えれば良かったな・・・と後悔してる。ちなみに質問は役者さんからで「外で役を演じ続けているせいか、家に帰るとなんとも言えない疲れがあって、もはや自分の本当の声がわからない」というものです。

「あなたではない役を演じるのではなく、役そのものになってしまいましょう。全てが包括、統合されれば疲れません。」

これ、ちょっと難しい表現です。

シータマン的にいうと、

自分以外のものになろうとするから疲れる。自分でいれば疲れない。

全てを自分として受容してしまえばいい。

これ、すごいこと言ってますよ。

ヴェーダーンタだね。

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私は、あかねちゃんとのグループレッスンに加え、2回の個人レッスンを受けてきました。最初の時に「時間が必要な人」と言われてたのですが、結果的には、早かった気がする。最後のレッスンの時に、これまでの人生で自分の喉から聞いたこともないような声が出てビックリ。

ペーパードライバー教習2時間というのに行った時、あまりの運転の下手さに教官が「むううう、こ、これは・・・ちょっと一日じゃ無理かもしれない」と眉を寄せていたのだけど、結局2時間で卒業。「あんた性格いいからすぐ上達したね」となりました。

どの治療家にも「うわっ!反応が速いっ!」と言われる。これに関しては我ながら瞬速ですよ。先週も「体が素直っていうか単純てことだな(笑)」とある先生に言われました。

マエストロが「時間のかかる人」と仰ったのは、私が、他人に心を開くのに時間が掛かるってこと、見抜いてのことだったのでしょう。

ただ先生は別。危険な冬山では、山に精通したガイドの言うこと聞かないと死んじゃうし。そこ、専門家に身を委ねるのはけっこう得意です。

自分の話になりますが、

私は自分のことを客観的に観察して、

「あっちの端っこと、こっちの端っこを同時に持っている人間」

と思っていました。

よく言えばダイナミックレンジが広いんだけど、真ん中がない。

エクストリームなドンシャリサウンド。

これをラジカルと表現した人もいた。

いろんな側面においてそれが言えますが、マエストロは、この内ある一つの面についてズバリ指摘してきた。

声を聞いただけなのに!なんでだー!

「一方の端が、もう一方の端を否定していて、自分が引き裂かれそう。」

「そのうち一方は持って生まれた性質、もう一方は外から植えつけられた価値観。持って生まれた性質を尊重して、受容しましょう!それは悪いことじゃない。美しいことです。もっと自由に!音楽です!自分です!」


その受容を、歌うという行為を通して試みるわけですよ。

その結果として、聞いたことのないような声が出た・・・と。
まだ、始まったばかりだけどね。

音楽療法ともまた違う。

結果だけみると、カウンセラーの人達が臨床で行っていることですね。セラピーです。

しかも、もやっとしたスピリチュアルみたいなことではなく、はっきりした現象であったリアル。

ただ、声に精通している人間じゃないと、これは出来ないねー。

どんな分野でも、その道に精通しまくった人というのは、こういうことなんでしょうね。

マエストロすごい。



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私は、ヨーガの先生という肩書きだけど、体操よりはお話をしていることが多い。マエストロが講義で仰っていたようなことを、言葉を使って他者の知性に訴えかけています。

教えているからには、多少なりとも知的な理解があるということです。しかし、知的に理解しているからといって、それを体現出来ているかというと、それは別の話だ。今回マエストロと時間を共にすることで、それをハッキリと認識しました。

知性はすごい。すごく機能性高い。でも、すごいからこそ私たちを捕らえて離さない。知性は私じゃないものなのに、私のフリをしてくる。自分がいかに知性にコントロールされているか。

「頭でっかちにならないで、私たちはもともと自由なんだから」

っていつも言ってるのに、知らないうちに頭でっかちになってる。歌ってみてハッキリそのことに気づきました。逆に、歌わなかったら気がつかなかった。まじで。


今回、一日、通訳としてマエストロにアテンドさせていただいたのですが、自分も含め、他の方のレッスンに立ち会っていても、そのことについて、ヒシヒシと考えさせられましたね。

三回のレッスンで、私が変わったかどうか。それは目に見えないから自分でも分からない。分かってるのは、思ったよりもずっと早く、私がマエストロに心を開けたということだけ。

求めるものは認識の変化なんですよ。

もっと自由に!もっと自分を楽しんで!

それがマエストロからのメッセージです。

私は、これまで歌を演じてただけ。

歌を真似してただけだったんだな。

自分が歌になっていなかったんだな。

おそらく、このブログの読者もたくさん、マエストロに会いに行くんじゃないかな。グループレッスンに申し込んでる方いらっしゃったら、個人レッスンを複数回受けてみることをお勧めします。

今回逃した方は、来年一月に再来日される予定です。

チャオ!