2014年8月22日金曜日

かんぺきな夏休みの写真の記録。



ムナール紀行の途中ですけど、閑話休題。ここ数日の報告です。

神戸と四万十から今朝戻って参りました。

ティケティケのクラスに来て下さった方、ありがとうございました〜。

そして、翌日のらくらしてた私の相手をしてくれたのりこ先生もありがとう!


のりこ先生は、2010年の1月にweb版Yoginiに寄稿した「天真爛漫」と題した文章を覚えていて下さって、その話で盛り上がったんだけど、それで「バックアップとしてコピーしておくべき」と思いついたので、この場に保存しておくことにします。テーマは「ヨーガを楽しくする方法」とかそんなようなことでしたね。


自分で書いた文章ながら、あらためて読み返して、しみじみ。

重複になるけど、とくにこの部分ね。


「天真」とは生まれつきの素直な心そのまま、「爛漫」は自然のままに輝き現れる姿をいうのです。いつまでも気分は小学生。何のてらいも持たず、若々しい新鮮な気持ちを失わず、そういう風に生きていけたらいいね。そうしたら、ヨーガは・・・すべては、もっと楽しい・・・。

そうそう、それからもう一つ。私の「ヨーガをもっと楽しく」してくれるもの。「それ以上でも以下でもない、そのままの私」を許してくれる「ヨガ友」たちの存在。このライフを歓びで満たすという我がミッションにおいて、もはや距離なんて関係ない、彼らには本当に助けられてます。




そうなのよ、その通りなんざんす。


のりこ先生とこの記事について語りあい、その足で三馬鹿トリオで四万十市の邦さんを尋ねたのだけど、それが妙に完璧なシナリオで怖い。ちなみに三馬鹿とは、私・アカチンサトーリーのアラフォー(?)兄妹ね。

川下り、海遊び、シュノーケリング、花火、温泉、料理、ぜーんぶやりました。

小学生のごとく遊んで「そういう風に生きること」を思い出し、東京に戻ったその日には、聖典の中にそれを教える。神様の書いたストーリーはなんだか妙に出来すぎている。そういえば、この記事でバトンを渡した相手も、今回の四万十メンバーのサトーリーだったじゃんか!



この肩書きを生きているわけじゃない。

この体を生きているわけでもない。

この気持ちを生きているんでもないんだ。

私は、私を生きている。

ただそれだけ。

それだけのことを、どうして人は忘れてしまうんだろう。



「楽しかった!時の過ぎるのを忘れた!」っていう経験を、誰しも持っていて、とくに子供の時なんてそうだけど、我を忘れて、時間の向こうの夢の中にいるみたいな、あの感覚。文字どおり、無我夢中に遊んだ夏休み、一瞬が永遠になった夕暮れ。そこに歓喜は満ちるなあって思います。

時間よりも速く、遅く、もっと静かに、もっと神に近づく、その瞬間、連続・・・。

私にとって、歓びとは・・・愛とは、それは完全な静けさ。




完全な静けさを、私は四万十の夏休みで思い出しました。

そこに時間はない。

距離も無い。

ただ、「在る」が在るだけ。


いやー、みんな馬鹿みたいに突き抜けましたね。
・・・というか私の馬鹿が宇宙まで突き抜けてしまいました〜。

四万十の友(クニさんチカちゃん)に我々の馬鹿が伝染ったのではないか心配ではありますが、素敵な殿方にはお見せするのも憚られる、百年の恋も醒めるような馬鹿っぷりをさらけ出せる、友たちの存在には本当に感謝です。

変な言い方だけど、放っといてくれてありがとう。

私をそのままにしといてくれてありがとう。


いろんな意味で、今回の四万十旅は貴重なものでした。

四万十の天真爛漫写真と共に、当時の文章をここに残します。



三馬鹿、四国に上陸。
   

夏休み〜!


ひゃっほ〜い!


二重の虹にむかって


ジャーンプ!



雨降る日は、




おうちでご飯。




雨上がりにはチームワークばっちりね。




でもやっぱり私は海より川が好きだ。


 花火のような一瞬の夏を、


忘れないと思います。

ありがとう。

いつまでも気分は小学生。
何のてらいも持たず
新鮮な気持ちを失わず
そんな風に生きて行けたらいいね。
生まれつきの素直な心そのままで
自然のままの輝きの「現れ」として。




「天真爛漫」

笑顔で夢を形にする意志の人、Ukoちゃんからバトンを受け取りました。
Ukoちゃん、ありがとう。今年もよろしくね。

「ヨガをもっと楽しむための方法」かぁ・・・「なんも考えないこと」ですかね~。あ、のっけからオフモードの独りごとになりましたが・・・こんなゆるい答えで良いんでしょうか・・・? 


・・・むかし、まだ学生の時のこと。私は、白髪の偏屈老人、泣く子も黙るI教授のゼミにおりました。先生は詩人で、とある寺の住職でもありました。「お父さんは心配症」(知ってる?)という漫画に出てくるお父さんにそっくり。

「授業中に弁当を食べようが、コーヒーを飲もうが構わないが、全霊で聴け!」

という変わった人でした。本当に弁当をムシャムシャ食べながら、最前列で聴いている私も、まあ変人だったには違いないんでしょうが、先生はそりゃもう最強変人だった気がします。授業中お喋りをしていた学生に

「地獄に落ちろっっっ!」

と怒鳴ってましたからね。とにかくかなりのインパクト・・・尊敬してました。


彼が決定的に私のヒーローになったのは、卒業の日のことです。式のあと、教授たちの訓辞を賜っていた時。「社会に出ても頑張って下さい」というお決まりの文句が続くなか、教壇に上がったI先生は、怒ったみたいな震える声で

「私は・・・頑張るという言葉は、大嫌いだっ!」

いきなりバタン、ドア閉めて退場。

衝撃でしたよ。研ぎ極めたナイフのような正論・・・。もしかしたら・・・先生は多分、本当に怒っていたんだと思います。「こいつらの云う、頑張るなんて言葉、嘘だ!」・・・先生の心の声を聞いたような気がして、私は胸を掻きむしられる思いでした。偏屈者の先生が言いたかったことは「手を抜け、楽をしろ」ってことじゃない。

『頑張って』なんとかやり過ごす様な生き方をするんじゃないよ。
  この限りある人の一生は、全ての行動を歓びと共にしてこそ全うできる。
  歓喜に挑み続けなさい。

・・・そう聞こえた。偏屈でも聖職者。感動しました。


以来、あの日の先生を思い出すたび「これからは魂の底から楽しいことしかすまい。その為に努力をしよう」と誓うのですが、どうしてこれが、一番難しいことなのかも知れない。

・・・しかし、楽しいって、どういうことよ。あー、あれだ、経験上、なーんも考えてない時だな。あれ?ヨーガの先生なのにこんなんでいいのか? あ、また独りごと・・・。

そこで、一応それらしく解析するわけですが、「なーんも考えてない時」ってのは、多分、ほんの少し前の過去でも、一寸先の未来でもない、今という完全な瞬間に居る時なんですよ。「多分」じゃなくて、これはホント・・・。

「楽しかった!時の過ぎるのを忘れた!」っていう経験を、誰しも持っていて、とくに子供の時なんてそうだけど、我を忘れて、時間の向こうの夢の中にいるみたいな、あの感覚。文字どおり、無我夢中に遊んだ夏休み、一瞬が永遠になった夕暮れ。そこに歓喜は満ちるなあって思います。

時間よりも速く、遅く、もっと静かに、もっと神に近づく、その瞬間、連続・・・

私にとって、歓びとは・・・愛とは、それは完全な静けさ。

だから私はもう、な~んにも考えないっ!バタン、退場。


「天真」とは生まれつきの素直な心そのまま、「爛漫」は自然のままに輝き現れる姿をいうのです。いつまでも気分は小学生。何のてらいも持たず、若々しい新鮮な気持ちを失わず、そういう風に生きていけたらいいね。そうしたら、ヨーガは・・・すべては、もっと楽しい・・・。


そうそう、それからもう一つ。私の「ヨーガをもっと楽しく」してくれるもの。「それ以上でも以下でもない、そのままの私」を許してくれる「ヨガ友」たちの存在。このライフを歓びで満たすという我がミッションにおいて、もはや距離なんて関係ない、彼らには本当に助けられてます。この場を借りて感謝の意をば・・・

みんなーっ、愛してるよーっ!


次のブロガーは・・・この人も天衣無縫ですね・・・「そのまま教」の大先輩であるあの人にバトンを渡します。楽しい暮らしの頼れるアニキ、今日も駄洒落が冴えるSatori君。アニキ頼んだ、後はよろしくっ!


2010年1月28日